社会人になって、はや3年が経とうとしている。そんな時、人間の成長ってなんだろうかと考える。
学生は、受験があるから良い。目標は周りが作ってくれて、本人はそれに向けて頑張ればいい。でも社会人になって、一番感じるのは、成長や達成の定義は、自分で決めなきゃいけないということ。
何のために働いているか分からない、ということを、呟(つぶや)いてしまう人は、与えられた目標で仕事をしている人なんだろう。学生時代はそれでも良かった。例え、周りに与えられた目標であっても、結果を出せば、それは自分の幸福になると信じられるから(●●大学のキャンパスを歩ける・良い就職先にありつける・・・etc)。
学生時代はそうした”幻想”(後から分かることだが。。)を元に、自分にドライブがかけらるからとてもいい。高校時代からすると、社会人になるなんて、かなり先のことのように感じられるし。それだったら、いい就職先に決まるために、いい大学を出よう、そのために努力しよう、というロジックは、とっても妥当な”頑張り要素”になりうる。
でも、社会人になって得られるものってなんだろうか?頑張った先に得られるもの。それは、給料や役職だ。でも、それって「より高度で難しい仕事をしてくださいね」という条件付きのものだ。
そこで、葛藤が出てくる。
頑張って給料高くして、もっと働かなきゃいけなくなる。その代わり、周りから信頼や羨望が得られるという、「献身的ハードワーキング族」が生まれる。一方で、それより、そこそこ頑張って、そこそこの給料もらって、そこそこのポジションでいいや、という「そこそこ族」もかなりの割合で出てくる。
そういう違いはあれど、両者に共通するのは、結局「私は何のために(誰のために)頑張ってるの?」という問いだ。
大事な家族がいれば、それは一時の「誰のため」を満たしてくれるのかもしれないが、そこで欠けているのは自分の喜びはどこにあるのか、ということだ。
だから、社会人は辛い。
そこで今の中での僕の結論としては、何かを諦めるという意味ではなく、いろんなことに折り合いを付けて、割り切って若いうちはやらなきゃな、と。少なくとも、自分の実力が付き、何か一人でもできる、と思えるまでは。少なくとも僕は、会社の中で、まわりの評価を気にして、テスト前日の勉強のようにそこそこ頑張って、という生活は、性に合わない。
やるなら本気で自分の好きなことに取り組みたい。でも、若いうちは実力も知れてるから、好きなことを最初からできるわけじゃない。だからそういう時は、好きなことは将来できればいいと。で、そのために今自分はここで、こういう修行をしているんだというくらいに、戦略的に考えるていかなきゃいけないと思っている。
不快な気分で長期間、自分のしたくないことを、そこに意味を見出せないまますることほどバカらしいことはない。自分の人生一度きりだから、それはもったいなさ過ぎる。目標は自分で作るものだけど、残念ながら不快な気持ちで自分の所属する組織にいる限り、人生の究極の目標なんかまわりに聞いても与えてくれないし、与えてくれるのは、短期的な”組織献身的な目標”のみだ。
だから、もう一度このタイミングで、
・好きなことって何だろう
・自分が嬉しいことって何だろう
・自分は社会にどういう影響を与えたいんだろう
ということを考えて、自分と向き合っていくしかないんだろうと思う。
その為に、出来る限り自力でも世の中の仕組みを学んで、人にも聞いて、というのが必要だし、最終的には、その定義した「好きなこと」(自分が与えた影響により世の中が喜ぶこと)を達成した時の、自分自身の喜びを想像して、それが自分にとって”すんなり来るか?”ということが、とっても大事なんだろう。そんな風に思っている。
社会人4年目ともなると、いろいろ考えるが別に悩んでいるわけじゃなくて、全然僕自身の思考は至ってポジティブなので、それがこの3年間の自分の成長の一つかなー、と思っている。